
にゃーと日本のものづくりNya- × Japanese Folk Crafts
にゃーが日本各地の郷土玩具や伝統工芸品になりました。デザイナーたかしまかずあきが、それぞれの作り手さんと直接対話して、日本のかわいくて・いいものを紹介するシリーズです。
This series is to present “kawaii” and fine goods which the designer Kazuaki Takashima discovered by talking with creators in the Japanese regions.











































石彫シーサー

山崎張子

津屋崎人形

琉球張り子

下川原人形 鳩笛

中島めんや

こぎん刺し

六原張子 和紙面

土湯こけし えじこ

三春駒

三春張子 うっかりネコ

三春張子 豆だるま

きびがら細工

KUTANI SEAL

水牛の角装飾アクセサリー

奈良一刀彫

まごじ凧

尾崎人形 長太郎

きじ馬

将棋駒

博多曲物

津屋崎人形

琉球張り子

けん玉

相良人形

蚊帳生地ふきん

いぐさマット

丸亀うちわ

大阪張り子

おきんじょ人形

HASAMI

廣田硝子

オホーツクの木彫り

花手箱

琉球張り子

六原張子

南部鉄器

福来だるまと招き猫

木の葉猿

彦一こま

KUTANI SEAL

卯三郎こけし
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石彫シーサー【沖縄】 紹介記事はこちら
シーサーと云うと陶製のものや漆喰シーサーなどが連想されますが、
本来は災いを防ぐために村落の入り口に丈夫で頑丈な琉球石灰岩でできた石獅子を設置していました。
スタジオde-jinを主宰する若山さんは、その純粋さと力強さに惹かれて、
琉球石灰岩を材料にした石獅子を製作しています。
琉球石灰岩は沖縄の大地を形成する地層で、
サンゴ礁の働きで出来た多くの気孔を含み、柔らかい性質を持ちます。
細かい彫刻には向かないとされますが、
若山さんは石それぞれの個性を生かして、一つ一つ丹念に彫り上げています。
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山崎張子【京都府】 紹介記事はこちら
京都と大阪の境に位置する大山崎町在住の松井威徳さんによる張子人形。
郷土玩具の研究・収集家でもある松井さんは、独学で張子製作をはじめ、
地元である山崎の土産物として親しまれています。
幼い頃から好きで集めてきた郷土玩具に対する審美眼で描かれる人形の
表情は、見る人を惹きつけるユニークさが特徴。
招き猫や相撲取りをはじめ、干支人形、またかつての大山崎町の土産物
として親しまれた「山崎の猪」など、さまざまなモチーフの張子人形を、
ひとつひとつ手作業でつくられています。
すべての作品には「山」の字が印されています。
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津屋崎人形【福岡】 紹介記事はこちら
-津屋崎人形とは
筑前津屋崎人形巧房は、福岡県福津市津屋崎の伝統工芸「津屋崎人形」を作る工房です。 津屋崎人形は「福岡県特産民芸品」に指定されており、また平成21年に福津市の優れた工芸品として「福津の極み」に認定されています。 「津屋崎人形」は、古博多人形の流れを汲む土人形で、素朴さと鮮やかな色彩が特徴です。また“二枚型による手押し製法”で作られ、分厚く安定感があります。 この製法は、熟練した技術を要するため量産に向かず、現在作っているのは、筑前津屋崎人形工房を含め2店のみです。 筑前津屋崎人形工房は、創業230年以上の歴史を持ち、現在は七代目である原田誠が匠の技を受け継いでいます。 また代々伝わってきている土型は1000点以上あり、大切に保存されてます。
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琉球張り子【沖縄】 紹介記事はこちら
-琉球張り子とは
主にユッカヌヒーと言われるお祭りでの玩具市で売られていたことが有名な琉球張り子。
南国特有の色使いが印象的ですが、明治以降セルロイドやブリキのおもちゃの出現によりだんだん衰退していきました。
しかし今でも、少数ではありますが職人の手によって伝統とその志は受け継がれています。
代表的なものに「ウッチリクブサー(起き上がり小法師)」、「チンチンウマ小(馬乗り)」などがあります。
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下川原人形 鳩笛【青森】 紹介記事はこちら
下川原人形【青森】
文化三年(1806年)ころ、筑前から伊万里の技法を習得した津軽藩士高谷金蔵が下川原(現在の弘前市桔梗野)に窯を築きました。
その後、津軽藩九代藩主寧親(やすちか)は津軽の地に子供らの玩具が少ないことを憂い、冬期の閑暇を利用して土人形等を作るよう命じました。それが下川原焼土人形のはじまりだと言われています。
この土人形制作は、それ以来、今日まで約二百年間受継がれています。
現在は、当時の子供たちがおもちゃとして遊んだ鳩笛、津軽の風俗や行事を表現した風俗人形、庶民の需要に応じて作られた干支人形や雛人形が作られています。
素朴な土人形としての伝統を受け継ぎ、ひとつひとつ心をこめて手作りでしあげています。
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中島めんや【石川】 紹介記事はこちら
中島めんや 金沢の郷土玩具【石川】
創業文久2年(1962)。今から140年余り前、初代清助が村芝居の小道具をつくっていました。特に踊り面の職人として知られたと伝えられ、屋号の「めんや」も「顔のある形を創造する家」という意味の「面」からきています。
明治初期、四代目は尾張町に移り店を構えました。上質の二俣和紙を手に入れるためには、当時の中心地が最適だったようです。欄間職人に獅子頭を作らせたり、また、加賀人形職人の第一人者だった晃山とともに近代的加賀人形の基礎を築いたといわれています。
昭和30年には、年賀切手の図案に「加賀八幡起上り」が、そして昭和35年に「米食いねずみ」、平成4年には、「猿の三番叟」が採用され、金沢の郷土玩具として全国に広まりました。
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こぎん刺し【青森】 紹介記事はこちら
こぎん刺し【青森】
こぎんは弘前付近の農村で、1764年、昭和の頃に生まれかつ育った異色ある刺しゅうです。昔は自家製麻布を藍で染め、それに白綿糸で刺し、もっぱら衣服に仕立てて着用していました。農村の娘であるかぎり、誰もがみな5,6才の頃からこの刺しゅうを習い、14,15才ともなればひとかどの刺手となり、競って美しいこぎんを刺すため努めました。そうした事情によって発達したこぎんも文様が今日、民芸品として最高のものであることが認められ、その応用品が多くの人々によって愛されるようになりました。
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六原張子 和紙面【岩手】 紹介記事はこちら
六原張子【岩手】
岩手県北上市周辺に伝わる郷土芸能の『鬼剣舞』でかぶられる鬼の面は、木彫りで作られていましたが、この面を安価な民芸品として、木彫りの迫力に負けない、和紙が素材の貼り湖面として制作をはじめたのが初代の竜輔です。竜輔が生み出したのは、一般的な“外張り”の技法ではなく、方の裏側から和紙を重ねる“裏張り”の技法。この技法により、型のエッジを効かせ繊細なディテールを表現することに成功しました。
二代目の範次郎は、日本北限の和紙である東和町成島和紙を素材に選び、張子を胡紛で塗りつぶさず、和紙の温もりを生かした表現を生み出し、ユニークな張子人形を制作しています。
岩手の「コシェルドゥ」では、そんな和紙の素朴な温もりが溢れる『六原張子』の起き上がり小法師シリーズを受け継ぎ、新作張子や漆の技術をミックスしたバッグやアクセサリーにも挑戦しています。
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土湯こけし えじこ【福島】 紹介記事はこちら
土湯こけし【福島】
宮城県鳴子温泉の鳴子こけし、蔵王温泉の遠刈田こけしと並び、日本三大伝統こけしのひとつである福島県土湯温泉に伝わる土湯こけし。頭が小さく、胴が細い形をしています。また、胴にはロクロ線模様が入り、土湯独特の“返しロクロ”という技法も見られます。頭頂に「蛇の目」といわれる黒い輪が描かれ、前髪と鬢の間には「かせ」という赤い髪飾りを描くのが特徴です。
西山敏彦さんは、代々続く西屋の伝統を守りつつ、新しい玩具づくりに励んでいます。西山さんのつくるえじこ(赤ちゃんを入れるかごに入ったこけし)はファンが多く、創作性に富んだユニークな作品として評判です。
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三春駒【福島】 紹介記事はこちら
三春駒【福島】
遠く坂上田村麻呂東征の伝説に由来する「子育木馬」が発祥と言われ、子育てのお守りとされた一寸大の馬型木彫が原形です。後に馬産地三春の仔馬生育を願って神社に奉納したり、子どもの玩具に用いたりしました。
大正期に現在の形ができ、直線と面を活かした巧みな馬体と洗練された描彩は、広く日本三大駒(青森の八幡駒、仙台の木ノ下駒)の随一として定評があります。
最近はホウの木を用い、鋸で切れ目をいれて頭あわせの2個組を作り、次に後頭部に当たる中心にノミをいれて割り、仕上げています。彩色には全面に黒を塗り、さらにニカワを塗ってツヤをだしています。次に模様描きをして麻のたてがみと尾を植えてできあがります。現在市販されている三春駒は高さで区分しており、一寸五分から一尺まで数種類あります。また、子育て木馬はお守りの一寸ほどの駒で、現在も古い体型が失われずに残っています。白い三春駒は長寿のお守りとされています。
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三春張子 うっかりネコ【福島】 紹介記事はこちら
三春張子【福島】
古く縄文時代の「土偶」は人形の始まりでした。 やがて土のほか、木で人の形を彫った人形が作られ木偶、 これを「でく」或は「でこ」と呼ぶようになりました。何れも人形のことです。 ここ高柴では、江戸期の元禄時代から、和紙を使った張り子の人形(でこ)を作っており、その工人の集落を昔から「でこ屋敷」と呼んでいます。高柴村での張子づくりの始まりは、遠く戦国時代伊達政宗正室愛姫の生家、三春城主田村氏の四天王の一人で、橋本刑部という武将の一族であった橋本家の祖先が、今から三百年ほど前の元禄年間、武士を離れてこの地に帰農し、大黒屋の屋号で信仰、縁起物などの土人形作りをはじめたのが起こりだとされます。わが国の土人形を代表するものに、西の京都の伏見人形、東の仙台に堤人形がありますが、古くこれから人形の支流は土人形でした。この高柴でも、最初土人形を手がけたらしく多くの土人形の型が残されています。しかもその一部は型状、材質共に仙台・堤人形の土型と同一で、当初は堤人形そのものの移入だったかもしれません。このことは、伊達市と旧田村市家臣の密接な関係をうかがわせます。その後ここでは、この土人形を和紙を用いる張子人形へと発展改良されたのです。人形の動き、立体感などの表現に限界のある土人形から、紙の利点を十分に生かした三春人形は、多様な題材への取り組みを可能にして、次々と独創的な人形を生み出していったのです。その結果、江戸時代の中頃、庶民文化の高まった文化・文政時代を頂点として、江戸を始め奥州各地にも売り出して評判を呼び、天下の名玩とうたわれるように至りました。とくに三春人形は、正面からだけ見せる土人形に対して表、裏、側面のいずれからみても 繊細優美な姿勢をたんねんに作り出します。そのため最も重要なのは木型で、この本家大黒屋には、巧みなノミさばきによる絶妙な古木型の逸品が数多く残されており、いま古人形の復元製作への努力が続けられています。
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三春張子 豆だるま【福島】 紹介記事はこちら
三春張子【福島】
高柴村での張子づくりの始まりは、遠く戦国時代伊達政宗正室愛姫の生家、三春城主田村氏の四天王の一人で、橋本刑部という武将の一族であった橋本家の祖先が、今から三百年ほど前の元禄年間、武士を離れてこの地に帰農し、大黒屋の屋号で信仰、縁起物などの土人形作りをはじめたのが起こりだとされます。その後ここでは、この土人形を和紙を用いる張子人形へと発展改良されたのです。人形の動き、立体感などの表現に限界のある土人形から、紙の利点を十分に生かした三春人形は、多様な題材への取り組みを可能にして、次々と独創的な人形を生み出していったのです。その結果、江戸時代の中頃、庶民文化の高まった文化・文政時代を頂点として、江戸を始め奥州各地にも売り出して評判を呼び、天下の名玩とうたわれるように至りました。さらに、江戸でも評判になった三春羽子板や独特な八方にらみの高柴ダルマ、天狗や七福神などの張子面と、多くの種類の郷土玩具を長い歴史と伝統を受けついで生み出しています。そして祖先伝来の農業にもいそしみ、土を愛する心を忘れず、すべての工程に心のこもった人間の温か味を込めた手づくりで皆さまをお迎えしております。
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きびがら細工【栃木】 紹介記事はこちら
きびがら細工【栃木】
きびがら細工十二支は鹿沼箒職人である当工房二代目房主 青木行雄 が昭和三十七年に創案、可憐な素朴さとほのぼのとしたほほ笑みを表現し、併せて皆様のお倖せを念じつつ製作しております。鹿沼箒と同じ材料である良質な国産の箒草のみを使い、古来から伝わる箒編みの技を駆使し創り上げたものです。
鹿沼箒は天保十二年頃から作り始められました。
明治十年には内務卿(大臣)から褒美を受け、
「製美ニシテ弱ナラズ且価ノ貴ナラザルヲ以テ家常ノ実用ニ適ス」と太鼓判を押され、早くからその名が知られております。
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KUTANI SEAL【石川】 紹介記事はこちら
KUTANI SEAL【石川】
2009年に九谷焼窯元・上出長右衛門窯と日本のものづくりをプロデュースする丸若屋が立ち上げたワークショップブランドです。クタニシールは「九谷焼をみなさんの身近に」をテーマに転写技術を使ったワークショップと製品を企画しています。
九谷焼は本来、職人が筆で絵を描くものですが、あらかじめ印刷された文様をシールのように器に貼付け、製品を量産する技術があります。低コストで職人による絵付けを再現することが出来ますが、逆に転写にしか出来ない表現の可能性もあります。それを使って遊んでみようというのがクタニシールなのです。
久谷焼は、石川県の南部で作られている焼き物。九谷五彩といわれるガラス質の美しい絵付けが特徴です。360年前に大聖寺藩の下で焼かれましたが、50年で廃窯。約100年後に再興され現代に至ります。ミステリアスな歴史を持つ伝統工芸です。
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水牛の角装飾アクセサリー【大阪府】 紹介記事はこちら
水牛の角 装飾アクセサリー【大阪】
尾崎工芸の先代の時代から70年続けている工房では象牙や珊瑚に施していた彫刻を、現在は水牛の角やボーン、鯨のあごの骨に替えて制作しています。
熟練した職人の手によって作られているうえ、自然素材のもつ風合いが一つ一つの出来上がりをさらに優しく変身させてくれます。
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奈良一刀彫【奈良】 紹介記事はこちら
奈良一刀彫【奈良】
一刀彫は、鎌倉時代に春日若宮祭で木偶を飾ったのが始まり。ヒノキやクスノキなどを豪快に彫り上げ、金箔や岩絵の具で華麗な極彩色に色付けします。森川社園の職人魂を継ぐ匠・土井志清が醍醐味を見せます。
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まごじ凧【福岡】 紹介記事はこちら

尾崎人形 長太郎【佐賀】 紹介記事はこちら
尾崎人形【佐賀】
尾崎人形は、神埼町尾崎西分地区に伝わる焼き物の人形で、全国の陶磁器の中でも古くからの伝統を残しています。
尾崎人形は20種類ほどありますが、中でも鳩笛はテテップウといって子供の人気者でした。鳩笛は全国の土焼人形山地にはよく見られますが、首を少しねじった独特の姿は、尾崎人形だけのものです。
伝承によると、「弘安4年(1281年)蒙古が襲来した元寇(弘安の役)の際、捕虜になった蒙古軍の兵隊が人形を作って吹き鳴らし、遠い祖国を偲んでいた。そして技術は地元民に伝わり、焼き物が盛んになった。」と伝えられています。この焼き物はやがて尾崎焼として、瓦・火鉢・鉢物類を焼くようになり、江戸時代には佐賀藩から幕府への献上品の一つともなりました、尾崎焼の人形作りは、一時途絶えた時期もありましたが、尾崎西分地区の「尾崎人形保存会」の手によって再興され、現在も存続されています。
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きじ馬【熊本】 紹介記事はこちら
きじ馬【熊本】
寿永の昔(約八百年前)、壇の浦の戦いに敗れ、九州の山間に落ちのびて来た平家の一族は、さらにその一部が、播磨の領主矢瀬氏を頼って人吉にやって来たといわれる。
しかしすでに、平家に縁のあった矢瀬氏は滅ぼされ、源氏の地頭相良氏の世となっていた。
頼りを失った彼らは、さらに逃れて、人吉の奥地木地屋や大塚地区に永住の居を定めたという。
しかし、去来するものはかつての都の栄華の夢、そのさびしさを慰めるために作り始めたのが『木地屋御器』であり『キジ馬』や『花手箱』や『羽子板』であった。荒削りの桐木に模様を入れ、松の輪切りを車としただけの無雑作なものに、くちなしの花の黄、麦の穂の緑、イセビ(ハクサンボク)の実の赤を草木染めにした素朴な、それでいて戦列な色彩の玩具は、貴族の高貴な香織と、芳醇な南国の土俗の匂いとをただよわせる芸術品に育っていった。
毎年二月、人吉のえびす市は、二日町・五日町・七日町・九日町の順に開かれ、露店に並べれらた『キジ馬』は男の子、『花手箱』(香箱)は女の子の土産物として、郷の人はかならず買って帰るならわしとなった。
『キジ馬』の頭に書かれる【大】の一字は、大塚の製作者の家に養子となって入りこみ、その製作の秘伝を盗んで逃げ帰った若者が、後世その罪滅ぼしと、養家への感謝の気持ちを篭めて書くようになったといわれている。
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将棋駒【山形】 紹介記事はこちら
将棋駒【山形】
天童の将棋駒づくりは、将棋が庶民の間に定着した江戸後期に始まりました。天童織田藩が財政立て直し策のひとつとして、藩士に「書き駒」づくりを推奨したのです。明治期に入ると、旧藩士が駒木地づくりと漆字の書き手に分かれて、分業生産を開始。木地の機械化によって大量生産が進んだ大正期からは、「押し駒」も導入され、日本一の大衆駒産地となりました。現在も将棋駒の生産は全国の大部分を占めています。
現在は機械による「彫り駒」が主流ですが、名工の手技による「書き駒」「彫り駒」「彫り埋め駒」「盛り上げ駒」は、その工芸的価値の高さから、国の伝統的工芸品指定を受けています。また天童市では、将棋文化の継承と普及を目的に、「人間将棋」などの将棋イベントを毎年開催。職人を育てる後継者育成講座なども開催しながら、「将棋駒のまち天童」の発展に力を注いでいます。
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博多曲物【福岡】 紹介記事はこちら
博多曲物【福岡】
博多曲物(はかたまげもの)とは、杉やヒノキの板を熱を加えて曲げて、それを桜の皮で綴じて作られるものです。関東では「まげわっぱ」と呼ばれています。
金属類が一切使われていないため、お手入れ次第でとても長持ちし、非常に軽くなっています。
※曲物(まげわっぱ) 飯櫃や弁当箱などに利用される板を曲げてつくった容器
時代とともに過去のものとなりつつある曲物ですが、近年その良さが見直され、愛用する方が増えてきています。
博多の町で400年以上の長きにわたって博多曲物を作り、伝えてきた柴田家。その博多曲物 玉樹の十八代目として家業を継ぐのが女性であり、母であり、職人である柴田玉樹(本名:真理子)さんです。
地図博多に詳しい人ならば、馬出と言えば「博多曲物」を連想することでしょう。
神功皇后が征韓の際に博多の馬出で皇子をお産みになり、その胞衣を蔵める容器を作ったことがその始まりとも言われますが、真偽のほどは別として、元禄時代の大学者、貝原益軒の著「筑前国続風土記」の記述から、当時の様子を知る事が出来ます。
「博多馬出町 筥崎八幡宮の西にあり。此所を博多馬出と号せしは、むかし、八幡の神輿博多夷社迄下向し玉ふ時此所により供奉の人の乗れる馬を出ける故に名とせり。播絵物師福岡博多に多し。ことに那珂郡馬出の町には、家々に捲を作る。皆羅漢松材を用ゆ。」
昔、筥崎八幡宮の神人であった馬出の人々は神社奉仕の家筋を誇りとして、神前に供える祭具の中で木器の曲物を各々の家内工芸として伝えてきたのです。
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津屋崎人形【福岡】 紹介記事はこちら
津屋崎人形【福岡】
筑前津屋崎人形巧房は、福岡県福津市津屋崎の伝統工芸「津屋崎人形」を作る工房です。 津屋崎人形は「福岡県特産民芸品」に指定されており、また平成21年に福津市の優れた工芸品として「福津の極み」に認定されています。 「津屋崎人形」は、古博多人形の流れを汲む土人形で、素朴さと鮮やかな色彩が特徴です。また“二枚型による手押し製法”で作られ、分厚く安定感があります。 この製法は、熟練した技術を要するため量産に向かず、現在作っているのは、筑前津屋崎人形工房を含め2店のみです。 筑前津屋崎人形工房は、創業230年以上の歴史を持ち、現在は七代目である原田誠が匠の技を受け継いでいます。 また代々伝わってきている土型は1000点以上あり、大切に保存されてます。
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琉球張り子【沖縄】 紹介記事はこちら
琉球張り子【沖縄】
主にユッカヌヒーと言われるお祭りでの玩具市で売られていたことが有名な琉球張り子。
南国特有の色使いが印象的ですが、明治以降セルロイドやブリキのおもちゃの出現によりだんだん衰退していきました。
しかし今でも、少数ではありますが職人の手によって伝統とその志は受け継がれています。
代表的なものに「ウッチリクブサー(起き上がり小法師)」、「チンチンウマ小(馬乗り)」などがあります。
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けん玉【山形】 紹介記事はこちら
けん玉【山形】
競技用けん玉は、一般社団法人日本けん玉協会が認定するけん玉です。級・段位試験を受けたり、全国各地で行われるけん玉大会にこのけん玉で参加したりすることができます。
山形工房は日本けん玉協会の製造指定工場にも選ばれ、長年にわたり競技用けん玉製造に取り組んでいます。
山形工房のけん玉作りに対するこだわりは、日本の熟練職人の目と手で本格派仕様のけん玉を作ることです。競技用として使用されるけん玉であるため、多くの種類の技ができるよう、精度と品質にこだわって一つ一つ丁寧に仕上げています。
今回は、たしかな山形工房の技術で、にゃーのオリジナルけん玉をつくりました。
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相良人形【山形】 紹介記事はこちら
相良人形【山形】
藩主親衛隊三手士相良清左衛門厚忠(上杉鷹山公時代1761-1822)は藩財政立直しの一翼として藩命に依り陶器製造習得の為相良におもむき(安政七年)帰りて成島に陶釜を築き雑器を焼く(後に成島焼と呼ばれる)。七年にして藩内の需要を満し、其の功にて加増を給う。
清左衛門、若年より文武両道はもとより諸芸に通じ特に彫刻を良くす、その特技を土人形作りに用い種々の人形を作る、其の形態の着意着想卓越せり、素朴さの中に優雅と気品を蔵す。
爾来、代々伝承されしが六代目昭和18年に至り廃絶の止むなきに至る。其の後空白を経て七代目相良隆再興す。
その手法は古法を守り着色模様に新工夫を加味し、歴代古相良人形に優るとも劣らざる人形を再現す。
ー米沢郷土玩具研究会
「猫に蛸」は、養蚕の縁起物の猫とご多幸(蛸)あれという願いが組み合わされたものとも言われている。
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蚊帳生地ふきん【奈良】 紹介記事はこちら
【蚊帳生地ふきん】
奈良の特産品、蚊帳生地でできた綿100%のふきん。
今では生活様式の変化によって需要の減ってきた蚊帳生地。その特徴である吸水性、耐久性に着目し、美しく機能的に再生したふきんです。
適度な目の粗さにより、速乾性と吸水性に優れ、汚れ落ちも良いので清潔にお使いいただけます。綿100%の天然素材で丈夫なので、ふきんの役割を終えたら、台拭き、最後は雑巾と長く活躍し、使うほどに、しなやかになっていきます。
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いぐさマット【福岡】 紹介記事はこちら
【いぐさ製品 添島勲商店】
福岡県大川市にある「添島勲商店」は、100%国産いぐさにこだわった製品をデザイン、販売しています。
調湿機能、弾力性、断熱効果、アロマ効果に優れたいぐさの機能を最大限に引き出して、掛川織、紋織、袋織といった技法で耐久性に優れた、使い心地のいい製品に織られています。
国産いぐさの作付け面積・生産量も少なくなっている中、添島勲商店では地元の生産者と協力をして、安心・安全で健康的な国産いぐさの魅力を発信しています。
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丸亀うちわ【香川】 紹介記事はこちら
【丸亀うちわ】
丸亀うちわは、江戸初期に金比羅参詣の土産物として、朱赤に丸金印の渋うちわが作られたのが始まりといわれています。天明年間(1781〜1789年)には、丸亀藩江戸詰大目付瀬山登が丸亀藩の下級武士の内職として奨励したこともあり、丸亀の代表的な地場産業として発展を続けました。
現在の生産量は年間約8300万本、全国シェアの90%を誇り、平成9年5月、国の伝統的工芸品に指定されました。
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大阪張り子【大阪府】 紹介記事はこちら
大阪張り子【大阪】
今から500年以上前に中国から伝わったという「張り子」。
当時紙はまだまだ貴重品だったため、書き損じの紙など反故紙(古い和紙)が使われました。
江戸時代から商業都市として栄えた大阪では、京都と並んで多くの反故紙が出たため、張り子製作が産業として発達。
地方からは農作業の少ない季節に張り子を作ろうと、大阪に修行に出る者も現れ、全国に広まったと言われます。
さらに大阪では、150年ほど前に流行り病が蔓延したときに、虎頭骨という漢方薬を配合した薬と一緒に配った張り子の虎のお守りが大人気に。
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おきんじょ人形【熊本】 紹介記事はこちら
おきんじょ人形【熊本】
日奈久温泉の伝説にちなんだ、美しい里娘「おきん」。彼女の純愛を讃え偲んで作られたのが、おきんじょ人形です。日奈久の桐材に着色してつくられています。
主に幼女が着せ替え人形やままごとに使うお土産品、飾り物として愛用されてきました。
現在おきんじょ人形を作っている職人は桑原哲次郎さんおひとりです。
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HASAMI【長崎】 紹介記事はこちら
HASAMI【長崎】
「HASAMI」とは長崎県波佐見町から発信する、波佐見焼の陶磁器のブランドです。
波佐見は長い間、有田の下請け産地であったため、その名はあまり知られていませんでした。
量産を得意とする波佐見焼は、成形、型起こし、釉薬、窯焼きとそれぞれに作業を発注する分業体制をとっています。多くの人が連携して関わるこの体制は、新商品の開発に多額の費用と時間がかかること、また各作業工程での意思疎通の問題を抱えています。
しかしその反面、各分野の高い技術力と効率的な生産体制を育んできました。
「HASAMI」は分業の垣根をこえ、産地としての誇りを胸に、“道具”としての陶磁器を作ります。
使われるためにあり、よく使い込まれ、そして使い古される。言葉にはできない不思議な力をもった、愛される”道具”を作りたいのです。
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廣田硝子【東京都】 紹介記事はこちら
廣田硝子【東京】
廣田硝子は、1899年の創業以来、ガラス一筋に歩んできた店舗です。
日本においてガラスは古くから装飾、工芸として技術が培われてきました。
その後、明治政府が富国強兵の一環として品川に官製ガラス工場を作り、ガラス食器が徐々に一般家庭の生活に根付きはじめました。
さらに、昭和になり戦後、高い生産・加工技術を誇る日本のガラス食器を欧米諸国に出荷していた中から、今の生活に使いやすいものを東京復刻ガラス「BRUNCH」として復刻しました。
当時と同じ、東京生産、東京加工にこだわった、まさにMade in Tokyoの逸品です。
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オホーツクの木彫り【北海道】 紹介記事はこちら
オホーツクの木彫り【北海道】
北見を中心とした中央オホーツク圏はこの豊富な森林資源を背景とした林業・林産業が盛んです。
中でも、延寿(えんじゅ)材はオホーツク海内陸の一部に限られており、今ではこの資源も年々減少し続けています。その昔、アイヌ民族はこの木を神の宿る木として崇拝したそうです。
その他の良質な木を素材としたウッドクラフトは、土産物としても親しまれています。
大島克司さんの作るにゃーのペンスタンドは一つ一つ表情が異なり、手作りの温かみが感じられます。
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花手箱【熊本】 紹介記事はこちら
花手箱【熊本】
花手箱は、モミ、ヒノキ、スギなどの板で作った箱で、白塗りをしたあと、赤と緑で椿の花をあしらっています。
800年以上前、平家の落人球磨地方に逃れ、人吉の奥地へ住みつき、都の暮らしを懐かしんで作りはじめたと伝えられ、人吉のえびす市で売られていました。
華麗な色彩と素朴な形は、都人の香りと、豊かな土俗の匂いを漂わせています。
鮮やかな色彩が特徴で、主に女の子用のお土産品として作られてきました。
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琉球張り子【沖縄】 紹介記事はこちら
琉球張り子【沖縄】
主に「ユッカヌヒー」と言われるお祭りでの玩具市で売られていたことが有名な琉球張り子。
南国特有の色使いが印象的ですが、明治以降セルロイドやブリキのおもちゃの出現によりだんだん衰退していきました。
しかし今でも、少数ではありますが職人の手によって伝統とその志は受け継がれています。
代表的なものに「ウッチリクブサー(起き上がり小法師)」、「チンチンウマ小(馬乗り)」などがあります。
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六原張子【岩手】 紹介記事はこちら
六原張子【岩手】
岩手県北上市周辺に伝わる郷土芸能の『鬼剣舞』でかぶられる鬼の面は、木彫りで作られていましたが、この面を安価な民芸品として、木彫りの迫力に負けない、和紙が素材の張子面として製作をはじめたのが初代の竜輔です。竜輔が生み出したのは、一般的な"外張り"の技法ではなく、型の裏側から和紙を重ねる"裏張り"の技法。この技法により、型のエッジを効かせ繊細なディテールを表現することに成功しました。
二代目の範次郎は、日本北限の和紙である東和町成島和紙を素材に選び、張子を胡粉で塗りつぶさず、和紙の温もりを生かした表現を生み出し、ユニークな張子人形を製作しています。
岩手の「コンシェルドゥ」では、そんな和紙の素朴な温もりが溢れる『六原張子』の起き上がり小法師シリーズを受け継ぎ、新作張子や漆の技術をミックスしたバッグやアクセサリーにも挑戦しています。
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南部鉄器【岩手】 紹介記事はこちら
南部鉄器【岩手】
南部鉄器は、岩手県の奥州市水沢区と、盛岡市で作られています。明治、大正期以降は南部鉄器と総称されていますが、奥州市の南部鉄器と、盛岡市の南部鉄器には異なった歴史があります。
及源・OIGENが社を構える奥州市水沢区の南部鉄器は、平安後期に藤原清衡が近江国から鋳物師を招いたことにはじまり、世界文化遺産に指定された平泉の文化に貢献。以後900年、及源も脈々と続く往時のハイテクを継承する末裔です。
盛岡市の南部鉄器は、江戸時代になって盛岡藩主南部氏が京都の釜師を招いたことにはじまり、以後400年を重ねています。これらの歴史から、献上品的な盛岡の南部鉄器に比べ奥州市の南部鉄器は庶民的で実質的な存在として今に連なります。
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福来だるまと招き猫【群馬】 紹介記事はこちら
福来だるまと招き猫【群馬】
・縁起だるま
「縁起」とは、「物事の起こり」という意味があります。
何かを始めるとき、だるまにその願いを込めます。
そして、困難があったら「七転び八起き」です。
困難にぶつかった時は、なぜその事が自分の身に起きたのか。
その困難から何を学ぶことができるのかを考えてみてください。辛い時はしっかりと見守ってくれます。願いを邪魔するものを大きな眼で睨みつけ魔除けをしてくれます。
・招き猫
数多くあった招き猫工房も、今では数件となりました。
当店のすぐ近くで制作している招き猫に、高崎だるま職人真下輝永が名入れします。
右手は家内安全・開運・幸運・健康・福招き、左手は円(縁)招き・商売繁盛・人招き・金運招き・良縁のご利益があります。
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木の葉猿【熊本】 紹介記事はこちら
木の葉猿【熊本】
今を去る千三百余年、養老七年元旦に「虎の歯」(このは)の里に侘住いをしていた都の落人が夢枕に立った老翁のお告げによって奈良の春日大明神を祭り、木葉山の赤土で祭器をつくり残りの土を捨てたところ猿に化したという伝説から生まれたもの。
悪病、災難除け、夫婦和合、子孫繁栄の守り神として広く愛玩されています。
型を使わず、指先だけで粘度をひねってつくり、素焼きのままの素朴な伝統玩具です。
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彦一こま【熊本】 紹介記事はこちら
彦一こま【熊本】
九州が生んだ頓智者彦一については沢山の小話があるが人をダマス狸も彦一に逢うては手も足も出ず遂に彦一の家来となって従順したという・・・この有名な小話を作品化したものです。
一家のユーモア、疫病除け、盗難除けのマジナイとして創作された漫画的趣向豊かな民芸品で、縁起玩具として広く愛好されています。
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KUTANI SEAL【石川】 紹介記事はこちら
KUTANI SEAL【石川】
KUTANI SEALは、2009年に九谷焼窯元・上出長右衛門窯と日本のものづくりをプロデュースする丸若屋が立ち上げたワークショップブランドです。クタニシールは「九谷焼をみなさんの身近に」をテーマに転写技術を使ったワークショップと製品を企画しています。
九谷焼は本来、職人が筆で絵を描くものですが、あらかじめ印刷された文様をシールのように器に貼付け、製品を量産する技術があります。低コストで職人による絵付けを再現することができますが、逆に転写にしかできない表現の可能性もあります。それを使って遊んでみようというのがクタニシールです。
九谷焼は、石川県の南部で作られている焼き物。九谷五彩といわれるガラス質の美しい絵付けが特徴です。360年前に大聖寺藩の下で焼かれましたが、50年で廃窯。約100年後に再興され現代に至ります。
ミステリアスな歴史を持つ伝統工芸です。
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卯三郎こけし【群馬】 紹介記事はこちら
卯三郎こけし【群馬】
全国一の生産量を誇る創作こけしの産地である群馬県にて卯三郎こけしの創設者「卯三郎」は昭和25年よりこけし創りをはじめました。
その孫である「卯三郎の孫」は伝統や技術を引き継ぎながら独特な世界観を表現しています。
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